アウトプットメモチョウ

頭のなかにある考えをまとめて吐き出してぶん投げる

本を読むのが好きなのかもしれない

今の今まで、自分は本を読むのが好きではないと思っていて、趣味:読書というのをすごく躊躇っていた。

だって、趣味:読書っていったら最近読んだ本は?とか、おすすめの本は?とか聞かれるんだもん…。 アレソレの考察とか、話題の本とか、全然読んでないし考察もわからん。本を全く読まない月だってあるし、終いには本を読みながら寝る始末である。

基本スタンスは、「ふーん、面白いじゃん」っていう感じです。コイツ、上から目線だな…。

こんな感じなんで、読書が好きといってしまうのは恐れ多いというか、憚られるというか…ねえ…?

そう思っていたのがついこないだまで。詳しく言うなら昨日まで。

今日ふと思い立って読書する理由を考えてみた結果、私は「自分じゃない誰かになれる」から本を読むらしい。
らしい。とつけるのはまだ決定的でないからだ。

私は小説を読むときは、基本近代文学作家のものを選ぶ。現代文学作家、平成以降の話はあまり選ばないし読まない。時代が近いから、登場人物に自分や、その周りの人と似通ったところをみつけてしまうし、環境も似ていることが多発する。
そうすると、私の場合ある種の妬みや嫉み、反骨精神が産まれるのだ。自分がその型に嵌められているような気がして息苦しくなる。
現代の男女のあり方、現代の問題に切り込んだ……という謳い文句を見るたびに顔が中心によるような気持ちになる。スッゲェ嫌。

なんかそういうの、嫌なんだよ。じゃあこの通り生きていない私はどうなるんだ?この考えについていけない私はどうなるんだ?とブレにブレる。

近代以前だと、時代も環境も考え方も違いすぎてそうならない。切り離しができる。切り離しができると、でてくる登場人物の考え方に寄り添える。「自分じゃない誰か」になれる。

エッセイも好きだ。無論これも時代が近くないエッセイに限る。エッセイを読むときは人の話を延々聞いているようなものだし、旅日記になれば旅の思い出を聞いているような、他人になれる。だから好きだ。

三島由紀夫が『小説読本』内でこういっている。


「悲しいことには、この縹渺たる文学的効果は、現代もっとも理解されにくいものの一つになってしまった。人々はもっとアクチュアルな主題だの、時代の緊急な要求だの、現代に生きる人間の或る心もとなさだの、疎外感だの、家庭の崩壊だの、性の無力感だの、(ああ、ああ、もう全く耳にタコができた!)そういうものについてばかり、あるいは巧みに、あるいはわざと拙劣に、さまざまな文学的技巧を用いて書きつづけ、人々は又、小説とはそういうものだと思っている。自分の顔(実は自分がそうだろうと見当をつけている自分の顔)を、すぐさま小説の中に見つけ出さなくては、読むほうも書くほうも不安なのだ。」


この文を見つけたとき、そ、それだそれだァーー!?!?三島由紀夫ォ!!!!(不敬)と心のなかで手を打ちならしすぐさまメモに残した。ページ数だけ記録し忘れてるけどわりと序盤だった気がする。

さすが、三島由紀夫、さすがです。ありがとう三島由紀夫。(不敬)

三島由紀夫のおかげで私が読書する理由がわかった。明確ではないけれども、言いたいことが言語化してあると語彙力無モンスターはすごく助かる。ありがとう三島由紀夫